2010年7月17日土曜日

熱くて哀しき綱吉

動物愛護法に関しては英国よりも日本や朝鮮の方が先進国である。殺生戒がある仏教の強い影響のせいなのだろうか、6世紀には動物殺生禁止令が百済、新羅、大和で施行されている。
ところで貞享2年(1685年)、第4代徳川将軍綱吉は最初の生類憐みとなる『江戸町触』を出した。以後25年間にわたり計135回この『町触れ』は出された。動機は巷間いろいろと言われているが、どうもこの将軍の特異な性格に起因するようだ。ともかくこの将軍は当時のことばで言う「まめやか」なのだ。その「まめやか」振りは度外れていた。
『生類憐みの令』の目的は当時の人心の精神改造だった。儒学の「仁のこころ」でいまだ残る戦国のすさんだ気風の一掃を図ったのであるが、やりかたがよくない、いちいち箸の上げ下げに口を出すようなやりかたであった。
第1回目は「先日も申し渡したように、御なり遊ばされる道筋に犬や猫が出てきても苦しゅうないから、どこの御なりなされる場合でも犬猫をつないでおかなくてよいぞ」(以下、『黄門さまと犬公方』の訳を引用)、『町触れ』は矢継ぎ早に出てくる。犬どうしが喧嘩をしたときには怪我をさせぬように水をかけて引き分けよ』ここで、疑心暗鬼の町人どもは、「おッお~」ときた。ピンと生来の魂にうったえるものを感じたのだ。すかさず、町中に「水わけ水」と書いた桶とひしゃくを置き、「犬」という字を紋どころにした揃いの羽織を番人着せ警備させたのだ。おちょくりである。しかし将軍さまは軽く受け流すことができぬ性格ゆえ「そこまでしなくてもよいぞ、ただし犬は粗末にせずにいたわってやるのだぞ」と丁寧に対応している。以後ひとつひとつ「まめやか」に答えていく。この調子で、25年間に亘る泥沼の闘いにはいっていった。ついには町中の犬は飼い犬も含めて江戸中から一掃された。殺したのではない。すべて幕府直営の犬屋敷きに収容したのだ。江戸近隣に数か所つくられたが、そのひとつの中野の犬屋敷は30万坪、ゴルフ場に匹敵する広さであった。ばかばかしさも極まれりと思うのだが真面目な人には通じない。こうした泥沼は綱吉の死をもってあっけなく終了する。後継の将軍家宣は死の枕辺で「生類憐みの令」の即時廃止を決めたのだ。所詮養子である、義父の切なる継続の願いなど聞く耳をもたなかった。ここで考える。誰よりも熱く懸命に儒学の理想に燃えた綱吉の一生であったが、無念があるとすれば、もうすこし子づくりに励めばよかったのだ。不肖の養子にちゃぶ台返しをされずに済んだのである。

0 件のコメント:

コメントを投稿