2010年9月21日火曜日

人と犬との真実~ひとはいぬに飼われている

犬と人間との関係ほど、お互いの誤解にもとづいて成りったている関係はない。男と女ならいずれ誤解が解消することもあるが、犬ではその可能性はない。これは永遠につづく誤解である。そもそも人間が犬を飼っているのか、犬に人間が飼われているのか、そのあたりからして怪しい。「犬が完全にその家の主人の地位を奪い、飼い主を脅して従わせ、命令を下すようになった」といった例はわたしの身近にいくらでもある。人が犬を選んだのではない、犬がわれわれ人間を選んだのだ、人間は犬に捕らえられてしまったのだというのが、最近の考古学と行動科学の結論だ。ダーウィンやローレンツが、狼とジャッカルが混血して犬になったと信じていたことや洞くつに住んでいた古代人が狼の子を連れてきて飼いならしたのが犬になったという古典的物語を支持する生物学者はほとんどいない。さて遺伝子の突然変異で狼の捕食本能や警戒心が欠如して生まれたのが原始犬である。DNA鑑定では原始犬が狼から分岐したのが13万5千年前。考古学では確実に犬だとされる化石は1万4千年前、中東のいくつかの地点で発見されている。人間と犬が同じ生活圏で化石として発見されているが、親密になる前の付かず離れずの関係は結構長かったのは確かだ。ラテン語で犬カニスCanisは古代ローマ人がいう「たかり屋」である。原始犬は人間が出す生ゴミや糞を食って生きていた。ゴミ捨て場を縄張りにするとその地域の狼を寄せ付けなかった。狼は人間と原始犬のまわりをいつもうろうろしていたわけだが、原始犬は人間の力を借り狼を追い払うのに成功した。いまや狼は生存競争にやぶれ動物園にいるのみの存在になってしまった。一方原始犬は約7千年まえに飼い犬と野良犬に分かれ現在では1億頭あまりが地球上あまねく繁殖している。ある時人間は原始犬を飼い犬にしてしまった。人間は大きな目をした丸い顔の小さな動物にめっぽう弱い。じっと見つめられると何とかしてあげたくなる。家の中に入れてしまった。犬という「たかり屋」まんまと乗せられてしまったのだ。人間は9億人が飢餓に苦しんでいるというのに「お犬さま」は働かず、ペットフードは食べ放題、1日に一度は人間を綱で引っ張りながら散歩を欠かさない毎日を楽しんでいる。

2010年8月15日日曜日

『波止場』から『八月十五夜の茶屋』への転向

マーロン・ブランドは映画『波止場』(1954年)で主役を射止める。監督はエリア・カザン。ブランドの演技は冴えわたり、この映画が代表的なメソッド演技といまでも評価されている。しかし役作りはこころに反作用を及ぼした。心理療法を専門医なしで行うようなものである。情緒不安定となり、隠れて病院の診療科に通うようになる。以後の役者人生に深刻な影響を及ぼした。また同時に恩師であるエリア・カザンの身辺にも深刻な事件が生じていた。冷戦が始まった52年に共産主義者の疑いをかけられたカザンは、身の潔白を証明するために共産党員の疑いのある11人の友人の名前を非米活動委員会に公表したのだ。自分は『波止場』では仲間を救うために命をささげる主人公を演じたのに恩師であるエリア・カザンは仲間を売って自分が助かろうとした。許せるものではない。ここでもブランドの精神は壊れてしまった。翌年の55年、エリア・カザンが監督の『エデンの東』の主役のオファーがきたがブランドは断わった。代役はジェームス・ディーンであった。ジェームス・ディーンはブランドのコピーを忠実に演じた。断わったブランドが選択したのが『八月十五夜の茶屋』だった。この映画のタイトルの8月15日は戦勝国の戦勝記念日を意味するもので戦勝国のおごりを表現したものであった。撮影はもめにもめて2年がかりで56年に完成した。その間の状況は子役として共演した沢村美司子さんから聞いているが。監督のダニエル・マンとブラントはことごとく意見が衝突し、しばしば撮影は中止されたという。内容はコメディでわれわれには荒唐無稽としか言えないもので、はっきり言って沖縄のアメリカ進駐軍のプロパガンダ映画そのものである。ブランドが演じた日本人通訳サキニもキモイ男であり、俳優としてのブランドのキャリアにはなりえないと思うが意外なことに彼は満足していた。わたしは何故ブランドが『エデンの東』を断わり『八月十五夜の茶屋』を選択したのかその後の出演作を見て分かった。精神を病んでいるものにとってメソッド演技がどんなにキツイものであるか。かれはメソッド演技法から逃れたかったのだ。役を作りに作ればサキニなり、ゴッド・ファーザーになり、地獄の黙示録になるのだ。仮面をつけて演技するのも役者の道なのだと悟ったのだと思う。ところでブランドの女癖の悪さは有名であるがとくに東洋の女性に目がなかった。沢村みつ子さんは14歳だったので対象外とのことであるが、共演の清川虹子には猛烈にアタックしたらしい(清川虹子著『泣いて笑って芝居して』によると結婚を迫られたそうだ)が『八月十五夜の茶屋』の時に夢中になっていたのがインド人女優アンナ・カシュフィで映画の完成後即結婚したところをみると清川女史の思い込みか?思い込みは、良い思い出になるので清川女史は同じコメディアンの伴淳三郎と結婚したことの方が良かった筈。結婚した方には不幸が待っていた。ブランドの愛はビビアンにあったのではないかと想像する。残念ながら証拠がないのであくまでも創造とする。アンナ・カシュフィはビビアン・リーのコピーだった。インド、ダージリン生まれのアイルランド人との混血という経歴は彼女の親族が全面否定しているのだ。カシュフィのいう経歴はビビアン・リーの経歴に他ならない。恐らくブランドの気持ちを推し量ってビビアンの経歴を詐称したのであろう。いじらしい女性だ。後に二人の結婚は破局し、いまカシュフィはトレーラーハウス暮らしでブランドの思いでのみで生きている。<写真>マーロン・ブランドとアンナ・カシュフィ                                

2010年8月14日土曜日

『欲望という名の電車』マーロン・ブランド

アメリカ映画の黄金時代は、51年の『欲望という名の電車』で始まり、79年の『地獄の黙示録』で終わったと言えなくもない。両方とも主演した俳優はマーロン・ブランド、扱いにくさではトップクラスといわれながら、ブランドは時代の先端を疾走した。彼を育てたのは、ロシア演劇スタニスラフスキーの演技理論を元にした「アクターズ・スタジオ」。
かずかずの性格俳優、ジェームス・ディーン、ポール・ニューマン、ダスティン・ホフマン、ロバート・デニーロ、アル・パチーノらを排出した演技学校である。これまでの既成概念にあてはまらない自由で、刺激的な演技を披露した。生々しい彼らの演技は、若い世代の観客の支持を集め、ハリウッドに新しい時代の到来を告げた。
映画の舞台になったニューオーリンズには「欲望(Desire)」「極楽(Elysian Fields)」といった変わった名前の通りがあり、『欲望という名の電車』は、「欲望通り(Desire Street)」を走っていた電車である。この電車には「Desire」という表示がされていた。『欲望という名の電車』(A Streetcar Named Desire)とはシンボリックなタイトルである。
この映画では、テネシー・ウィリアムズの同名の戯曲をエリア・カザンが監督し、『風と共に去りぬ』(1939)でアカデミー主演女優賞を受賞したビビアン・リーが主演した。ブランドは脇役であるが、重要な役であるステラの夫の役を演じた。主人公は名家出身の女性ブランチ。社会に適応できないブランチは堕落し、やがて故郷を追われて妹のステラの下に身を寄せる。しかし、ステラの夫スタンリーは退役軍人で粗野な工場労働者だった。ブランチは暴言・罵倒、挙句に隠していた過去を晒され、暴行される。ブランチは痛めつけられ、施設に入れられる。
結末は悲惨である。何時も雨が降っているような映画である。じめじめしたニューオーリンズの風土ならありえる話で、わたしも現地に行ってみたが、乾いた米国とは異質な世界である。この映画でブランドは粗野で男くさい新しいタイプのスターとして一躍注目される存在になり、ビビアン・リーは消えていった。スカーレット・オハラは新しいスターと交代した。

2010年8月1日日曜日

英国の父権は世界一

英国の父権は世界一と書くとたちどころに異論が来るだろう。そんな筈はない、英国は女王の国だ、さらに女性首相にサッチャーがいたではないか。世界一のカカア殿下、いや失言、レディー・ファーストの国であるからして父権が世界一になりようがないではないか。まあ大体こんな反応が返ってくるだろう。
ところがである、英国王室ですら父権に母親は口を出さないのである。たとえ理不尽な父親の権勢の行使に対してもだ。エディンバラ公フィリップの場合、よく公衆の面前で息子のチャールズ皇太子を激しく叱責した。たいがいは父親の理不尽な理由であったらしい。周囲の者はやきもきしたが、一貫して女王はいっさい口をはさまなかった。父権を認めていたのである。
もうひとりのチャールズの場合、父権によってあやうくその稀有な才能がつぶされそうになった。『種の起源』を世に生み出した「ビーグル号の航海」に博物学者としてチャールズ・ダーウィンが乗りこむことに父親のロバート・ダーウィンは猛反対したのだ。断わりの手紙まで書かせた。当時22才になっていてしかも学者として評価されていた成人の意志を認めなかったほど父権は強かったのである。救ったのは叔父の生物学者ジョシア・ウェジウッドであった。彼がいなかったらダーウィンの進化論は無かったかもしれない。
やけに強い父権を振り回す背景には中世いらいの「弱い父ヨセフ」に対するキリスト教徒の拭いがたきコンプレックスがあると思われる。ヨセフは母マリア、子イエスに比してかなり影が薄い。英国人の父権へのこだわりにそれを許したくない気持ちがあるのではないか。
かくて中世以降の英国は父権国家?になる。帝国主義の時代の潮流に便乗してパターナリズム(父権主義)として確立される。当たり障りなく支配するのにこれはけっこう役に立った。現地人を父親のように善導する、英国王室が父権をもって当たるわけだ。今もなお、エディンバラ公フィリップは英連邦の元植民地の現地人に以下のような言葉をかけている。「あなたたちはほとんど海賊の子孫なのではないのですか?」(1994年ケイマン諸島訪問時、現地人に質問)。「なんとか食べられずに済んだのですね」(1998年パプアニューギニアを探検した学生に発言)。「まだ槍を投げ合っているのですか?」(2002年オーストラリア訪問時、オーストラリア先住民ビジネスマンに質問)。これらは皮肉でも冗句でもない。ほんとうに父親として心配しているのである。

2010年7月24日土曜日

打ち水「サギ」大作戦

この週末、全国紙に「打ち水大作戦2010」の全面広告が相次いで掲載された。事務局は「日本水フォーラム」いままで下町の片隅で行われてきたこじんまりした企画が一挙に国交省、環境省、東京都、政府環境局の後援を受け、カネをかけた大々的な作戦に変貌した。一体何があったのだろうか。おそらく協賛団体に名前を連ねている建設コンサルタント会社のひとたちはほぞを噛む思いをしているだろう。誇大妄想としか言いようのない企画に巻き込まれたことにだ。そもそも打ち水で真夏の気温を2℃下げることができると思うこと自体ばかげている。計算は簡単なことだ。東京都全体の面積×地表から少なくとも10mの大気を2℃下げるための必要エネルギーはいくらになるか、建物、歩道の放射熱も計算にいれて。新米の建設コンサルタントにでもできる計算だ。しかし主催者はTV放映でつまらぬ詐欺実験をしてくれた。サーモグラフィで舗道のアスファルトの表面温度を測定したのだ。ほら10℃下がりましたと。たしかに表面は冷えるがその1㎝下は高熱のまま、散水をやめればたちまち元どおりになる。詐欺だ。TV実験では元の気温に戻るのに30分もかからなかった。表面の温度しか測定できないサーモグラフィを使う実験は99%詐欺と思った方がよい。装置が高ければ高いほどひとを騙せる。安い方法はいくらでもある。この場合、実験効果を見極める簡単な方法は、地上10mに温度計を置いて時間変化を見ればよい。桶一杯の水ではたぶん何の変化もないだろう。「おんだんかなんてとまらなくてもいいから あなたのなみだをとめられるなら つめたくなったこころをあたためられるなら みずをもっておもてにでよう ひとはひとりじゃいられないから ひとりってことはありえないようにできているから だれかといっしょにいっせいに ひとりじゃないから うちみずだいさくせん」これが1億円以上もかけた広告コピーのことば。何が言いたいのかさっぱりわからない。はじめから温暖化を止める気がないのは分かるが。情緒的なことばの羅列で最後は打ち水を一緒にやりましょうと締めくくる。ムダな労力とおカネの「打ち水大作戦」は8月23日までの1カ月つづく。日本の環境政策の貧弱さと非科学性の象徴として。

2010年7月17日土曜日

熱くて哀しき綱吉

動物愛護法に関しては英国よりも日本や朝鮮の方が先進国である。殺生戒がある仏教の強い影響のせいなのだろうか、6世紀には動物殺生禁止令が百済、新羅、大和で施行されている。
ところで貞享2年(1685年)、第4代徳川将軍綱吉は最初の生類憐みとなる『江戸町触』を出した。以後25年間にわたり計135回この『町触れ』は出された。動機は巷間いろいろと言われているが、どうもこの将軍の特異な性格に起因するようだ。ともかくこの将軍は当時のことばで言う「まめやか」なのだ。その「まめやか」振りは度外れていた。
『生類憐みの令』の目的は当時の人心の精神改造だった。儒学の「仁のこころ」でいまだ残る戦国のすさんだ気風の一掃を図ったのであるが、やりかたがよくない、いちいち箸の上げ下げに口を出すようなやりかたであった。
第1回目は「先日も申し渡したように、御なり遊ばされる道筋に犬や猫が出てきても苦しゅうないから、どこの御なりなされる場合でも犬猫をつないでおかなくてよいぞ」(以下、『黄門さまと犬公方』の訳を引用)、『町触れ』は矢継ぎ早に出てくる。犬どうしが喧嘩をしたときには怪我をさせぬように水をかけて引き分けよ』ここで、疑心暗鬼の町人どもは、「おッお~」ときた。ピンと生来の魂にうったえるものを感じたのだ。すかさず、町中に「水わけ水」と書いた桶とひしゃくを置き、「犬」という字を紋どころにした揃いの羽織を番人着せ警備させたのだ。おちょくりである。しかし将軍さまは軽く受け流すことができぬ性格ゆえ「そこまでしなくてもよいぞ、ただし犬は粗末にせずにいたわってやるのだぞ」と丁寧に対応している。以後ひとつひとつ「まめやか」に答えていく。この調子で、25年間に亘る泥沼の闘いにはいっていった。ついには町中の犬は飼い犬も含めて江戸中から一掃された。殺したのではない。すべて幕府直営の犬屋敷きに収容したのだ。江戸近隣に数か所つくられたが、そのひとつの中野の犬屋敷は30万坪、ゴルフ場に匹敵する広さであった。ばかばかしさも極まれりと思うのだが真面目な人には通じない。こうした泥沼は綱吉の死をもってあっけなく終了する。後継の将軍家宣は死の枕辺で「生類憐みの令」の即時廃止を決めたのだ。所詮養子である、義父の切なる継続の願いなど聞く耳をもたなかった。ここで考える。誰よりも熱く懸命に儒学の理想に燃えた綱吉の一生であったが、無念があるとすれば、もうすこし子づくりに励めばよかったのだ。不肖の養子にちゃぶ台返しをされずに済んだのである。

2010年7月12日月曜日

猫いじめの動物愛護国イギリス

スコッチ・コリー、スコッチ・テリアと見た目も性格もよい好印象の犬に対してどうも英国では「猫」は歩が悪いようだ。そもそも英国産の猫で見栄えのする猫はいない。美的にも性格的にも猫は評価が低い。英国ウォッチャーの定説では、猫の性格と英国人の性格とは相性がよくないことになっている。原因は両方にある。両方とも性格が悪い。まず英国人の性格の悪さについて述べてみよう。同じ島国の日本にも似たところがあるからあまり強く言えないが、英国人の性格の最大の欠点は弱い者いじめが大好きなのである。今回は動物いじめの話だけに限るが、動物虐待禁止法ができた1835年まで、イギリスの下層階級は「牛いじめ」「熊いじめ」「雄鶏いじめ」などの「動物いじめ」を娯楽にしていた。上流階級も負けてはいない。「ライオンいじめ」「狐いじめ」「兎いじめ」を娯楽とスポーツにしていた。これには長~い、長~い歴史がある。いまだに英国貴族はその習慣が抜けていないが。英国には「猫いじめ」はないが、いじめの代わりに、英国人はいちばん頻繁に、いちばん熱心に猫を中傷してきた。その中傷を箇条書きにすると、猫は①領地の生物を密猟する②小型だが野生の猛獣と憎いほど似ている③外見を変えようとする繁殖家に抵抗する。つまり相手を勝手に選びSEXする。④態度が悪い。主人を好きなのか、嫌いなのか、信用しているのか、いないのかがわからない。つまり可愛気がない。結論としては、「猫というのは著しく劣った家事使用人で、お上品で官能的快楽に溺れ、もっと気高い性質にかけているために、高貴で寛大な人の共感が得られない」と言うわけだ。でも、これはよく考えると猫ではなく英国婦人のことではないかと思う。ご婦人がたの前で言えないから「猫」に託して言ったのではないか。英国の男たちの情けない姿が垣間見えてしまった。日本も似たり寄ったりだと言われれば返すことばはないが。だから、御同輩!猫いじめは止めましょうや、猫は化けて出ますから、負けるが勝ちですよ。

2010年7月8日木曜日

クロマグロの危機

「大西洋クロマグロを、壊滅的に減らした一番の要因は、産卵場での巻き網操業である。産卵場で産卵群を巻き網で一網打尽にする破滅的な漁法が日本でも2004年から開始され、日本海のクロマグロ産卵群が激減している。実は、日本のクロマグロは、タイセイヨウクロマグロと同様に、危機的状況にあるのだ」と、鳥取県境港市の漁師、勝川俊男氏はブログで訴えている。現場の漁師が身近に感じているようにクロマグロ資源の枯渇は著しい。大西洋マグロ類保存国際委員会(ICCAT)」が前年比40%減の漁獲割当を決定したが「カツオを含む主要マグロ類の資源回復には到底達しない」(小松正之、元水産庁漁業交渉菅、政策研究大学院大学教授)、状況にはやりきれない思いがする。
以前は、マグロ漁業の主流は延縄漁法でマグロを釣り上げていた。しかし80年代からはえ縄漁法の20~30倍の漁獲能力のある巻き網漁法が欧米を中心に導入されるようになった。結果ははえ縄と他の漁法の漁獲量は横ばいだが一網打尽で大量漁獲する巻き網は50万tから270万tへと5倍に増えた。さらに養殖用の稚魚を獲るために、ブログにあるように産卵場で巻き網操業をした。ここで大きく間違えたのだ。産卵群を巻き網で獲るとは、賢明な日本の漁師のやるべきことではない。何に血迷ったのか。自分で自分の首を絞めたとしか思えない。確かに、クロマグロは一回の産卵で一千数百万個の卵を産むが数は無限ではない。卵を獲りつくせば成魚の数がどうなるかは言わずもがなだ。中西部太平洋のクロマグロはこの50年間で3分の1になった。もっと心配なことは、日本海域の産卵場の巻き網が2004年から始まったことだ。卵は無い。深刻な資源枯渇の事態もこれからは覚悟しなくてはならないだろう。養殖に卵が必要なのは言うまでもない。

2010年7月5日月曜日

WWFのおかしな話

パンダ印の世界自然基金の話です。略称ではWWFと言います。WWFのホームページを開きますといきなり寄付金の記事が出てきて、それが延々と続きます。それで、かつてお会いしたWWFのセールスマンのことを思い出しました。彼は自動車のセールスから転職してきたひとで主に法人を対象にして廻って歩いていました。寄付金を集める仕事で歩合制ですと大変そうな顔で言いました。法人は寄付金を払うと例のパンダマークが貰えます、寄付金が定額なのは公平性を担保するためです。でもそれって、昔マルティン・ルターが怒って宗教改革を始める原因になった免罪符と同じでしょ?企業の資格審査をやっているの?たぶんやっていると思います。で、わたしは少し調べてみましたが、いやはや突っ込みどころ満載の組織でした。環境破壊企業を環境優良企業に仕立てあげる「グリーンウォッシング(みどりの洗濯、マネーロンダリングの環境版)」の例が他の環境NGOからたくさん指摘されていました。例えば、インドのボパール化学工場のユニオンカーバイド、バルディーズ号原油流出事故のエクソンはWWFの幹部ゆえに擁護していました。
あの『タイタニック』のディカプリオ氏、トラ狩り禁止運動をWWFに訴えたそうです。それは魚屋にさかなを殺すなと言うようなものです。WWFの創始者のひとり、名誉会長のエディンバラ公フィリップは現地人が行う狩猟は野蛮な行為であるが上流階級が行う狩猟は崇高なスポーツであるといって、いまでもトラ狩りを続けています。
金持ちが資金を出し合ってやるギャンブル、例えばF1レースなどはF1マフィアが仕切ります。まぐろ養殖ももしかしたらマフィアが仕切っているかもしりません。マフィアが仕切っているようなところには決して「シー・シェパード」や「グリーン・ピース」は手を出しません。今後の成り行きを見て行きましょう。

2010年7月1日木曜日

ヒ素と塩の関係

日本は火山国の故にヒ素混入の危険性は全国あまねく存在する。日本の温泉水の多くが許容摂取量をこえるヒ素を含んでいる。ヒ素は古代から毒殺に用いられたほどの毒性があるもので、温泉水を常用すると慢性ヒ素中毒になる。「50歳代の女性が、胃腸病に効くと言われている秋田県のトコロ温泉の温泉水を飲み始め数カ月して黒褐色の色素が全身に網の目状に沈着、手掌、足底の皮膚に角化を生じ、慢性ヒ素中毒と診断された。患者が飲んでいた温泉水から基準値の1000倍のヒ素が検出された」(『健康食 品中毒百科』丸善)という例は決して珍しいことではない。
わたしの親しい土壌汚染除去業者から聞いた話だが、ある有名な自然塩メーカーの製造した藻塩から多量のヒ素が検出されたというのだ。原因究明と汚染された塩の処置がその業者に依頼された。かかる事態の背景には、健康に気を使うヒトたちが(砂糖の場合も同じであるが)、精製されて真っ白になったものを好まない。精製されたものは毒であるという馬鹿げた信念を持つ健康食品関係者に影響されて不純物あるいは有害なものがはいったものを好む傾向がある。まじめに精製すれば起きない問題である。
原因はすぐに分かった。藻塩の藻に原因があったのだ。ひじきとか藻には海中に含まれるヒ素を濃縮する性質がある。ひじきを毎日1.25g1週間食べると50kgのひとで週間耐容摂取量を越すほどである。すなわち多量のヒ素が藻から塩に移行したわけだ。以後ヒ素に汚染されていない藻が使われた。
もしあなたが浄化されていない濁った水を飲めと言われ飲むだろうか、温泉水を飲んで慢性ヒ素中毒になった女性の例がある。白くない塩や砂糖にはごみが入っていると思った方がよい。健康のために死んではならぬ。

2010年6月21日月曜日

いとかわと糸川博士

無事地球帰還の宇宙飛行士野口聡一さんは地上を歩くことができませんでした。159日間の宇宙滞在は長すぎたようです。宇宙船体内での筋トレの効果は無かったのでしょうか。まさか、さぼっていたのでは?いえ、いえ、そんなことはありません。宇宙には重力がないからです。地球にいる人間は生まれてこのかた徳川家康ではありませんが重力という重荷を全身に受けて生きているのです。地上の重力に匹敵する負荷をかけるなら「巨人の星」の星飛雄馬みたいに24時間全身をゴムバンドでぐるぐる巻きにしなくてはいけなかったかもしれません。
亡くなる一年前でしたが、日本のロケット開発のパイオニア糸川英夫博士、そうです「はやぶさ」が7年もかけて行ってきた小惑星「いとかわ」のゆかりのあの先生です。先生は耳を疑うようなことをおしゃいました。「宇宙開発はやめなさい。まだ海洋開発の方がよい。暮らすのだって海の中に家をつくれば一年じゅう温度が一定で快適だし、東京湾の海中には充分なスペースがある」さらに先生は身振りをまじえて「そもそも無重力の宇宙船内でどうやってSEXをするのじゃ。押したら相手は壁まで飛ばされるだけだ。こどもをつくれなければ人類は滅亡するぞ」先生のご高説は置いておいて。
ともかく米国とロシアは宇宙開発競争から引きつつあります。閉所恐怖症を起こしそうな狭いカプセルから地上から成層圏に飛んでくる大陸間弾道弾を監視してあわよくば打ち落とそういう物騒なプロジェクトは冷戦の終了とともに必要が無くなりました。事業仕分けではありませんが、宇宙開発から軍事目的を引き算したらいったい何が残るのでしょうか。納税者である国民に分かるように説明して欲しいものです。参考に月面着陸に成功したアポロ11号のアームストロング船長のことば、「この一歩は小さいが人類にとって偉大な一歩である。そして米国のタックスペイヤー(納税者)にとっても偉大な第一歩である」日本では最後のフレーズはなぜか省略されてしまうが、どうか、くれぐれもアームストロングのように納税者ことをお忘れないように。

2010年6月9日水曜日

ツバルの海面上昇の今は?

「過去60年間に撮影された航空写真と高解像度の衛星写真を使い、ツバルやキリバスなど太平洋諸島の27島の陸地表面の変化を調査した。その結果、海面は60年前よりも12センチ上昇しているにもかかわらず、表面積が縮小しているのは4島のみ。23島は同じか逆に面積が拡大していることが明らかになった。ツバルでは九つの島のうち7島が3%以上拡大し、うち1島は約30%大きくなったという」と英国科学誌「ニューサイエンティスト」は報じた。自然の回復力の頼もしさを見る思いだ。われわれ日本人はこの結末と同じ自然の営みを列島2万年の歴史の中で経験してきた。風水害や海岸浸食で壊されるとたちまち自然がそれを修復した。神がいるかのようにである。丸山真男が「歴史意識の古層」でいう「不断に成りゆく世界」が日本人の意識のもっとも古い意識にある。そして、ひとも生(な)るのだと思われていた。ひとは地から生える草、民草と呼ばれた。旧約聖書「創世記」の唯一絶対の創造神が列島にはいなかったので長い間日本人は自然と共生できた。さて「ツバル海面上昇」の今後はどうなるのか?ツバルの人たちの生活は?海面上昇に伴う地下水の塩水化は止められるか?当面の危機は自然の力で回避されたが。まだまだ危機はつづく。

2010年6月3日木曜日

この10年間で、1回の充電で1000㎞走行できる「リチウム空気電池車」は衝撃的な変化を先ず自動車工業に与えるだろう。これでやっと電気自動車時代の到来となった。オバマの環境政策《スマートグリッド構想》は電気自動車が中核技術になっている。しかも振動、騒音、CO2、排ガスのない都市は生活者にとってウエルカムである。しかし悩ましいことがある。現在、石油資源の約50%を消費している自動車を電気エネルギーに代替するには膨大な量の発電が必要なのだ。そこでスリーマイル島の事故以来建設を停止していた原発の建設が米国で解禁された。
 一方わが国は違った意味で原発建設のニーズが高まっている。昼夜間の消費電力の差を解消する方策ができた。つまり原発建設を制約していた揚水式ダムの建設が必要なくなるのだ(例えば利根川水系の上流部は揚水式ダムを建設できる余地は全くない)。分かりやすいように表現するが、電気自動車を原発で生まれた余剰電力の捨て場にできる。だから今後、電気自動車の普及と同時進行で原発が国内で次々と建設されるだろう。日米の民主党とも内部に原発反対派がいるにも関わらず「原発推進派」であることの意味をわたしたちは肝に銘じるべきだ。